Det rör inte hjärtat / vapnet

http://hybris.imeem.com/music/DCqS9wFx/vapnet_det_rr_inte_hjrtat/?d=1

この曲がいまのいちばん。
身につまされるようなはずかしい感じとそれをはねのけるような生きる勢いと。

14 år du trodde att du ska dö och det ska du
du vet allt om kärlek och ensamhet väntar i dig
tills det händer

後日(080419)の追記:
「14 år du trodde att du ska dö och det ska du」だったよ。

いつかどこかでみたコメント、
「VAPNETの歌詞ははずかしくてさぶい感じぎりぎりのとこがいい」
とは、2年か3年ほど前、KALLA MIG がラジオでかかりまくっていた頃に、
どこかの高校生くらいの女の子が書いていたもの。
すごく納得できる、と思ったけど、同時に、
10代真っ只中のときにそんなふうに斜に構えてしまうのかー、
と思ったのを覚えている。

もちろんそれはきっとティーンネイジャーだからこその感じ方、
表現のしかただろうし、そんなふうにある意味シャイな感じには書けないほどに
歳をとってしまった自分というのがいるのだけれども。

でもやっぱり10年前の自分とか15年前の自分とかいう、
思い出すのもはずかしいような存在がいて、過去があったりして、
そしてそれがあったからやっぱり今があるんだなあという感慨は、
歳を重ねてみないと感じる事ができないものなんだなあ、ということと、
だからこそ、はずかしいようなことすらも率直に表現してしまえるし、
また文面以上の深みを感じることもできるんだろうなー、
というようなことを、VAPNETを聴くたびに思う。
2年ほど前のあの女の子は、いまVAPNET聴いてどう思うんだろう、どう書くんだろう。


SIBIRIAの曲は現在形のものが多くて、
VAPNETの曲は過去形もしくは現在完了形のものが多いんだ、と気づきました。
ノスタルジックなだけじゃなくて、あああというような過去も含めて、
いろんなことがあってそれを受け入れて今がある。
というごくごく普通のことだけども、それをさらりと言えてしまえるということは
ものすごいことではないかなあと思う。

かっこつけるわけでもなく、それにあこがれるでもなく、淡々と生きていくことと、
その中で起きる事柄の数々。誰しもの人生がひとつの大きなドラマであることを、
ふつうに映し出すというのは、わりとむずかしいことなんではないかしら、と、
思うのでした。


やっぱりどこにでもある田舎町の10代を描いた映画「ショー・ミー・ラヴ」で、
転校してきて友達もできない主人公が、父親に何十年後かに幸せになるために
今があるんだよ、と諭されて「でもわたしは何十年後かよりもいま幸せでいたい」
と返す場面がある。
その台詞と重ね合わせてしまうのは、
ヴァージン・スーサイズ」で医者に連れて来られた末っ子が
「先生は13歳の女の子だったことはないでしょう」と言う場面。
結局「ヴァージン・スーサイズ」ではみんなけだるく人生をあきらめてしまう。
「ショー・ミー・ラヴ」では主人公たちはみんなそれぞれに
「こんなくそったれな町、くそったれな人生もういやだ」と言いながらも、
やってくる明日のためにドアを開ける。
何度も何度もそういうふうに思うときは来るのかもしれないけれども、
それでも過去を振り返ると笑えるような時が来る、たぶん。


何が書きたかったのかというと、

やっぱり生きてみないとわからないことだらけだよなーということと、
シリアスに思えることも後では笑えることかもしれないということ、
そして明日はやっぱり来る、というようなこと。
淡々と、人生は続く。それはやっぱりすごいこと。

というような、こと。
そして個人的にそういうことを感じられるものの方が好きだなあということ。
(ということなので、「ヴァージン・スーサイズ」の世界観はどうしても受け入れられないのでした)
あーはずかし。でもせっかくなので書いておく。